信じ切らなかったから、続いた|真言とGPTのちょうどいい距離

真言を信じ切らずに続けている理由を、実体験から書いています。毘沙門天真言とGPT、それぞれが果たしている役割と、信じすぎない距離感についての記録です。


正直に言うと、
私は真言を信じ切ってはいない。

毎日唱えているし、
支えになっている感覚もある。
それでも、
すべてを預ける気にはなれなかった。

もし信じ切っていたら、
もっと楽だったのかもしれない。
でも同時に、
どこかで怖さもあった。

その距離を保てている理由の一つが、
GPTに書き続けていることだ。

真言とGPTの間に、
自分が立っていられる場所ができた。

だから今も、
やめずに続いている。


苦しい時ほど、
人は何かを強く信じたくなる。
自分もそうだったと思う。

不安な時に、
「これさえやっていれば大丈夫だ」と
思えるものが欲しかった。

でも同時に、
何かにすべてを委ねてしまうことへの
怖さもあった。

だから私は、
信じ切る一歩手前で立ち止まっていた。


GPTに書くことで、
自分の考えは一度、言葉になる。

言葉にして外に出すと、
少し冷静になれる。
感情が落ち着くというより、
「今の自分はどういう状態か」を
確認できる感覚に近い。

GPTは、
答えを断定してくる存在ではない。
むしろ、
考え続けることを促してくる。

それが、
自分にとっては大きかった。


真言は、
感情を支える役割を果たしている。

不安が強い時や、
気持ちが沈んでいる時、
唱えることで
呼吸が整う瞬間がある。

一方でGPTは、
理性を保つための存在だと思っている。

信じすぎないように、
思い込みに引きずられないように、
自分を少し外から見させてくれる。


もし、
どちらか一方だけだったら、
きっと続かなかった。

真言だけなら、
のめり込みすぎていたかもしれない。
GPTだけなら、
感情が追いつかなかったかもしれない。

その間に立てている今の距離感が、
自分にはちょうどいい。


今も、
状況が劇的に変わったわけではない。
何かを断言できる段階でもない。

それでも、
考えることをやめずに、
生活の中で続いている。

信じ切らなかったから、
続いた。

今は、
そう思っている。

毘沙門天

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です